招詞:イザヤ書45章22節
「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」
起(Introduction)
・皆さん、おはようございます。本日はテモテへの手紙一2章1節から7節までの御言葉を通して、「神は唯一であるから」という主題のもとに、共に御言葉に聴いていきましょう。
この箇所でパウロが語っていることは、教会の祈りについてです。しかしそれは、ただ祈りの作法や順序を教えるということではありません。私たちはだれに向かって祈るのか。
私たちはだれのために祈るのか。私たちの祈りは、どこまで広がるべきものなのか。
そうしたことが、この短い箇所の中で、実に深く語られています。
教会は祈る群れです。礼拝の中でも、家庭でも、それぞれの生活の場でも、私たちは祈ります。
けれども正直に言えば、私たちの祈りはしばしば狭くなります。自分のこと、自分の家族のこと、自分たちの教会のこと、気にかかる身近な問題のことには熱心に祈れても、その外にいる人々のためにはなかなか祈れないことがあります。また、自分と考えの違う人、自分にとって苦手な人、自分とは遠いところにいる人のために祈ることは、決して簡単なことではありません。
そのような私たちに対して、今日の御言葉は祈りの範囲を広げなさいと勧めます。そしてその理由として、私たちの気分や善意ではなく、神ご自身を示します。すなわち、「神は唯一である」という真実です。
神が唯一の方であるからこそ、その御前に立つ教会の祈りもまた狭いものでは、ありえないのです。
神がただ一人の主であるから、救いは一部の人の所有物ではなく、すべての人に向けられています。
ですから教会は、すべての人々のために祈るのです。本日の説教では、
このことを三つの面から味わいたいと思います。
第一に、唯一の神は祈りをすべての人へ広げられること。
第二に、唯一の仲介者キリストによって救いがすべての人に開かれていること。
第三に、それゆえ教会が福音を証しする群れとして召されていることです。
承(Development)
まず1節でパウロはこう言います。
「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」
ここには祈りに関する幾つかの言葉が並べられています。願い、祈り、執り成し、感謝。
つまり教会の祈りとは、ただ願い事を並べることではなく、神の前に心を静めて立ち、他者のために取り成し、すでに与えられている恵みを感謝する営みだということです。そして大切なのは、それが
「すべての人々のため」
にささげられるべきだと語られていることです。教会の祈りは、自分たちの仲間内だけにとどまってはいけないのです。
パウロはそのことを、続く2節でさらに具体的に語ります。
「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」
これはとても印象的な勧めです。自分たちに好意的な人のためだけではない。
自分たちを理解してくれる人のためだけでもない。社会を動かす立場にある人々のためにも祈りなさい、と言うのです。なぜなら、神は教会の外にいる人々のことも御心に留めておられるからです。
そして3節、4節でその理由が語られます。
「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
ここには福音の広さがあります。神は、すべての人々が救われることを望んでおられる。この御心があるから、教会の祈りもまた、すべての人々に向かって広がっていくのです。私たちは時に、だれのためなら祈れるか、だれのためには祈りにくいとか、又は、だれのためには祈りたくないと線を引いてしまいます。しかし神は、私たちが引くその線の外側にも御心を注いでおられます。神がすべての人々の救いを望んでおられるなら、教会もまた、だれかを祈りの外に置いてはいけないのです。ここで私たちは、祈りの出発点が自分の心の広さではないことを知ります。私たちの心は狭いのです。
けれども神の御心は広い。その広い神の御心が、私たちの狭い祈りを広げていくのです。
ですから、教会の祈りは、自分たちにとって都合の良い世界を願う祈りではなく、神が望んでおられる救いの広がりに合わせていく祈りなのです。
その中心にあるのが5節、6節です。
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」
ここでパウロは、祈りの土台をはっきり示します。教会がすべての人のために祈るのは、ただ人道的であるためではありません。唯一の神がおられ、その神と人との間に、ただおひとりの仲介者キリストがおられるからです。もし神が民族ごとに別々であり、救いの道も人ごとに別々であるのなら、祈りもまたばらばらになるでしょう。しかし聖書はそう語りません。
神は唯一です。そして仲介者もただおひとりです。だからこそ、この救いはだれかに独占されるものではなく、すべての人に開かれているのです。ここで 「ただおひとり」 という言葉は、狭さではなく、むしろ確かさを示しています。救いの基礎が揺るがないからこそ、私たちは安心してすべての人のために祈ることが可能なのです。
キリストが仲介者であるとは、神と人との間に横たわる隔たりを、御自身によって担ってくださったということです。罪ある私たちは、そのままでは神の前に立つことができません。けれども、人となられたキリストが、私たちのただ中に来てくださり、十字架において御自身を献げてくださいました。
そして、6節で
「すべての人の贖いとして御自身を献げられました」と訳しています。ここに福音の中心があります。
キリストはある限られた人のためだけに来られたのではない。
すべての人の贖いとして御自身を献げられたのです。ですから教会は、あの人は遠い、この人は難しい、この人には福音は届かない、と簡単に言うことはできません。私たちが難しいと思うその人のためにも、主は御自身を献げられました。私たちが祈ることをあきらめたくなるその人のためにも、主は贖いの主でいてくださいます。
転(Turn)
・ここで、招詞として読まれたイザヤ書45章22節を、もう一度心に留め、皆さんとご一緒にお読みしたいと思います。
「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」
ありがとうございます。
この御言葉は、今日の新約の箇所と驚くほど深く響き合っています。
ここでもまず語られているのは、神の唯一性です。
「わたしは神、ほかにはいない。」
この宣言があるからこそ、
「地の果てのすべての人々よ」
と呼びかけることができるのです。
もし神が一部の人だけの神であるなら、この招きはそこまで広がりません。
しかし主は、地の果てにいる人々にまで目を向け、
「わたしを仰いで、救いを得よ」
と言われます。ここで
「仰ぐ」
とは、ただ目で見ることではなく、神に向き直ること、神に信頼すること、自分の拠り所を神に置くことです。つまり旧約においてすでに、唯一の神はすべての人を救いへ招く神として示されているのです。
パウロがテモテへの手紙で語っていることは、突然に現れた新しい発想ではありません。
聖書全体を貫く神の御心が、キリストにおいて明らかにされ、教会の祈りと宣教のかたちとなって現れているのです。
このことを、私たちは今日(こんにち)の教会の歩みにも当てはめて考えたいのです。教会は、ともすると内向きになります。自分たちの課題、自分たちの不安、自分たちの必要に心を奪われます。
それ自体は無理のないことです。けれども、そこで終わってしまうなら、教会の祈りは聖書の示す広さを失います。唯一の神を礼拝する教会は、唯一の神の御心の広さを忘れてはいけないのです。神が
「地の果てのすべての人々よ」
と呼びかけておられるなら、教会もまた、その広がりに仕える群れであるはずです。
私たちが毎週の礼拝でささげる祈りは、世界のための祈りであり、社会のための祈りであり、平和のための祈りであり、まだ福音を知らない人々のための祈りであり、また、自分と違う立場にいる人々のための祈りでもあります。
神が唯一であるから、祈りもまた分断を越えて広がります。
結(Conclusion)
そして7節でパウロは、
「わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、
すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです」
と語ります。
ここでパウロは、自分の務めを個人的な誇りとして語っているのではありません。唯一の神、唯一の仲介者、すべての人のための贖いという福音があるからこそ、その福音を告げ知らせる務めが与えられているのだと語っているのです。言い換えれば、教会の使命は、神が唯一であることから生まれています。神が唯一であるから、この福音は一部の人にだけ閉じ込められてはならない。
キリストがすべての人の贖いとして御自身を献げられたのだから、この知らせはすべての人に届けられなければならない。そのためにパウロは遣わされ、そして今日(こんにち)の教会もまた遣わされているのです。
ですから私たちは、今日の御言葉の前で、自分の祈りを問い直したいと思います。
私たちの祈りは狭くなっていないでしょうか。自分のこと、自分に近い人のことだけで終わっていないでしょうか。主は今日、私たちに祈りの地平を広げなさいと語っておられます。祈りを見渡す限り、限りなく広げなさいと語っているのです。
王たちや高官のためにも祈りなさい、と語られた御言葉は、今日(こんにち)で言えば、この社会を担う人々のためにも祈りなさいということでもあるでしょう。また、平和が壊れている場所のために、苦しみの中にある人々のために、教会から遠くにいる人々のために、まだキリストを知らない人々のために祈りなさい、という招きでもあります。
私たちはそのすべてを自分の力で愛しきることはできません。しかし、唯一の神の御心は私たちよりも広いのです。その広い御心の中へ、私たちの祈りを置き直していただくのです。そして、祈るだけでなく、祈りつつ仕え、仕えつつ証しする者とされたいのです。家庭で、職場で、学校で、地域で、社会で、教会で、私たちが出会う一人ひとりに対して、この方の救いは開かれているのだという希望を失わずに歩み続けたいのです。
「神は唯一であるから」
この短い主題の中に、今日の御言葉の心が込められています。
神は唯一である。だから、救いはすべての人に向けられている。神は唯一である。だから、仲介者キリストもただおひとりであり、その贖いは確かである。神は唯一である。だから、教会の祈りも、教会の愛も、教会の証しも、内に閉じずに、外へと広がっていくのです。どうか私たちのこの教会が、この唯一の神の前に立ち、狭くなりがちな心を広げられ、すべての人々のために祈る教会、そしてキリストの福音を静かに、しかし確かに証しする教会として歩んでいくことができますように。
お祈りします
・真の命の神様。あなたが唯一の神であり、ほかに神はおられないことを覚えて、御名をあがめます。
あなたがすべての人々の救いを望み、唯一の仲介者であるキリスト・イエスによって、
救いの道を開いてくださったことを感謝します。どうか私たちの狭くなりやすい心を広げてください。
自分たちのことだけでなく、隣人のために、社会を担う人々のために、苦しむ人々のために、
まだあなたを知らない人々のために祈る者としてください。
あなたの御心の広さに、私たちの祈りを合わせてください。また、祈るだけで終わるのではなく、
与えられた場所で福音を証しし、平和を求め、隣人に仕える者としてください。
唯一の仲介者である主イエス・キリストによって、私たちをあなたの御用のために用いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。